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2006.11.05

手首をなくした王

トラックバックをいただいたデコデコマンさんの「デコ親父はいつも減量中」のエントリー、トリスタンとイゾルデ−(映画:2006年134本目)−が大変おもしろかった!! 主人公二人の関係の例3つには、読みながら爆笑です。

このエントリーはおもしろいだけでなく、わたしがスルーしてしまっていた重要なポイントが指摘されている。
以下にデコデコマンさんのエントリーから引用します。

街中で手を握るシーンなんて、手首を切り落とされているマーク王の人格を踏みにじっているようで見るに耐えなかった。

広場の市のマーク王とイゾルデ、トリスタンがイゾルデに近づいてこっそり手を握る。それを見て、状況に気が付く裏切り者達。あんな人目の多い公衆の面前で手を握ったら、ばれるに決まってるだろ! しかもこっそりやってるからあやしさ倍増。すこしは物考えろよ! と映画見ながら思った。

しかしデコデコマンさんが書くように、側にいるマーク王が右手首を失っていること、イゾルデと手をつなぐことができないことを思うと、トリスタンとイゾルデの行動はあまりにも無神経で、マーク王に対する同情と哀れみで涙が出そうになった。
しかもマーク王はトリスタンを助けるために手首を失っているのだから…。
制作者がどこまで考えているのか(あまり考えてないからのような気がしてしまうのが悲しいけど)不明だが、このシーンのトリスタンとイゾルデ二人の行動には、まったく共感できないし、マーク王に対して残酷すぎると思う。

ここで、手首をなくしたマーク王について考えたい。

王や領主と領民の関係は、基本的に支配と保護です。領民は王に外敵から守ってもらいことの見返りに、年貢などの物品対価、忠誠や尊敬など心的対価を与える。古代では「外敵」に自然災害や病気、自分たちの理解を超えた現象もすべて含まれた。そのころは王は神々との仲立ちをつとめる者、神官でもあった。だからこそ強い者が王になる。病弱な王では戦争になったときに困るのはもちろんだが、土地の実りも子孫繁栄も望めない(自分たちの子供が生まれない、育たないのも、王に子供がいないから)、というのが古代の理論。

予言をし損ねた予言者が死ななければならなかったように、外敵からの防衛に失敗した王は死ななければならなかった。
疫病が流行ったり、災害で作物が実らなかったりしたら、王が神々との仲立ちに失敗した(神々の庇護を失った)ことなので、王は生け贄として殺され(時には自ら生け贄になる)、神々が気に入りそうな新たな人物が王になった。
老いた王が若い後継者に国を譲るというのは、こうゆう意味がある。

神々が気に入りそうな人物はもっとも優れた者、強く賢く美しく、気前がよく、勇敢で、献身で、芸術にも優れ、精力もばっちり、全てにおいて並外れている者ほど望ましい。

ケルトや北欧・ゲルマンの古代の信仰では、土地は大地の女神のもので、その土地の女王や王女は女神を象徴する存在だった。王は女神である女王と婚姻することで、土地の支配権を得る(※1)。王は常に「全き者」「完全な者」でなければならなかった(※2)。

※1 アーサー王伝説では王妃グウィネヴィアが大地の女神を象徴する存在。実際アーサー王国の重要アイテムの円卓はグウィネヴィアが結婚の引き出物として持ってきたという伝説もある。これは土地の女神と結婚した英雄という物語が変形したものだろう。また、グウィネヴィアとランスロットの浮気も、女神が老いた王から若い英雄に寵を移したとも読める。モードレッドが反乱を起こして、義理の母グウィネヴィアと結婚しようとするのも、グウィネヴィアが王国そのものを象徴する存在だからだ。

※2 アーサー王伝説の聖杯城の漁夫王は膝(の間)に傷を負って、痛みで馬に乗れず騎士としての娯楽、狩猟や馬上槍試合に参加できない。なのでいつも小舟で釣りをして過ごしている。聖杯によって王の傷が癒されるまで、この土地は作物が育たず、病気で人々が死に、経済活動も停滞した不毛の地だった。膝(の間)の傷とは、○ニス(ここストレートに書いたらやたらエロスパムトラバがきたので伏せ字にしました。全くめんどくさい!!)に傷を負った、生殖能力を失った、という意味の湾曲な言い方です。伝説の根底には王が病むと土地が荒れるという考えがあった。
ブアマンの映画「エクスカリバー」の聖杯のくだりは漁夫王がアーサー王に置き換えられいて、病んだアーサーと王国の荒廃がセットになり、パーシヴァルが聖杯の力で両方を同時に癒す物語になっている。

体の一部をなくす、というのは、完全な者でなくなるという意味で、古代の習慣に従うならマークが王でいることはできない。しかし時代が進み、王国も単一の血族集団からだんだんに大きくなり、支配者側も領民も人間関係が複雑になれば、それだけで王を生け贄にしたり、退位させたりするわけにもいかなくなる。

加えて、映画のマーク王は有能で部下や領民、他の諸候からも慕われているし、右手首がなくてもいざというときには戦っている。マーク王が王でいるのは彼の人柄が大きいと思う。

この場合「なくした手首」というのは何を意味するのだろうか?(※3)

すぐに思うのは愛情表現において不利だということ。しかもマーク王は手をなくす前にラブラブな奥さんがいたわけだし、新妻を迎えて手が一つというのはかなりもどかしいだろう(イゾルデに対する負い目にもなってたはずだ)。
ほかには「王の手(ロイヤルタッチ)」。王が手を触れることで病気が治るという信仰だ。(「王の手」が左右どちらかに特化してるものなのか、両方つかえるのかどうかは、ちょっと調べ中)これができなくなるというのは、やはり王としての不完全さを象徴するとも読める。

※3 西洋絵画の象徴性から調べようと思ったのだが、ちょっと漠然としすぎていて「手 象徴 西洋絵画」ではネットではとくにそれらしいものは引っかからなかった。やっぱり高いけど象徴辞典買うかなぁ。こんなのとか。新装版 西洋美術解読事典

美術史の方からの考察はちょっと保留にして、似たような伝説や神話がないか考えてみた。

あったです。
北欧神話の軍神チュール!!(テュールと表記されることもある)

巨大なオオカミの怪物フェンリルを拘束しておくために、神々はドワーフに“絶対に切れない魔法の鎖グレイプニル”を作らせた。問題はどうやってフェンリルに鎖をつけるか。この鎖は見た目はたいそう華奢だったらしい。
オーディンはフェンリルに「こんな鎖くらいおまえはすぐひきちぎれるだろう。ひきちぎれないほど弱いならおまえは害がないからすぐ解放してやる」と言う。当然ながらフェンリルは信用せず(そしてそれは正しい(^^;))、縛られる間、神々の誰かが自分の口に腕を入れておくことを要求する。だれもが怯んだが、一人チュールは平然と右腕をフェンリルの口の中に差し入れた。その間にフェンリルはグレイプニルでぐるぐるに縛られる。しかしどうしてもひきちぎることができない! 鎖が切れないから解放しろとオーディンに迫るが、もちろんオーディンには解放する気はさらさらない(大神ともあろうものがかなりせこいぞ)。怒ったフェンリルはチュールの腕を喰いちぎってしまう。これ以後チュールは隻腕だが、この行為で勇気を多いに賞賛された。
テュール(ウィキペディア)

北欧やゲルマンの神話では「勇気」という気質がとても重要なので、この話もチュールの勇気が一番のポイントだが、もう一つこの話には「犠牲」というポイントがある。
チュールはおそらくオーディンの策略を知っていたろうから、フェンリルの口に腕を入れた段階で腕をなくすことも覚悟していただろう。アースの神々みんなのために自分の意志で、即座に自らの腕を犠牲にした。この時怯んだ他の神々は自分の身を思わずかばってしまったわけだ。自分にできなかったことを、ためらいもなくできたチュールに賞賛が集まるのは当然だ。

マーク王は子供のトリスタンをかばって右手を失った。アイルランドの襲撃者たちはオオカミの獰猛さを連想させる。子供を助けるという行為はとっさのことで、チュールの行為よりも人として自然だし、時代を問わず共感する行動だろう。ただし自分にできるかどうかは、だれでもその場にならないとわからない。でもマーク王は一瞬の判断でそれができた。

つまりマーク王の場合、手首をなくしたことは不完全さを表すのではなく、賞賛する行為の結果となる。失ったことがかえって王としての完全性を体現しているのだ。惜しげもなく子供をかばうことで、目に見える部分の手を失ったが、目に見えない部分の手(守り手、国の担い手などの言葉で現される)象徴性はより完成されたのだ。

マーク王が助けた子供は、妻と共に殺された自分の子供であり、彼が王として守らねばならない領民、国土を象徴する存在だ。
だからマーク王は子供=トリスタンを愛するし、彼が成長し強くなることを喜ぶ。
トリスタンの裏切りは、マーク王にとっては自分が守ってきた全てのもの、領民、コーンウォールの大地からの拒絶とも受け取れただろう。

しかしマーク王は、結局トリスタンを許しイゾルデと共に逃がそうとする。彼はもう一度自らを犠牲にして相手を助けようとするのだ。自分の想いを犠牲にしてトリスタンとイゾルデの心を助け、自分の体を犠牲、あるいは生け贄にして領民と大地を救おうとする(※4)。

※4 この究極の自己犠牲は一種、イエス・キリストを思わせる。「イエスの十字架上の死は人々の罪をあがなう」といわれるが、これは全ての人のために自らを生け贄に捧げるという究極の愛の行為だ。イエスが偉大なのは「犠牲/生け贄」によって救われるものの概念を、一部族とか一国とか民族とか地域やナショナリズムの枠にとらわれず、全ての人間にまで広げたことだ。わたしは信者ではないが、この発想の転換は素直にすばらしいと思う。

ここまで書くと、やっぱり映画の中ではマーク王が一番かっこよくてすばらしい人だったと再認識する。正直トリスタンの株はかなり下がったなぁ。
もっともトリスタンもまた、最後には自らを犠牲にすることの意味を知ったと思う。ただし彼は若さゆえか、自分の犠牲にイゾルデを巻き込んで、本人の同意もなくイゾルデを犠牲にしていることには気が付けなかった。

映画ではトリスタンは死に、マーク王は生き残って国を再建する。
神々はトリスタンという生け贄を受け取り、ここに神話的、魔術的な世界と時代は終わりを告げた。神々は時の背後に後退する。生き残ったマーク王は、より神話的・魔術的人物であるにもかかわらず、現代に続く理性と倫理の世界へ向けて再建を始める。

世界は理性と倫理で開かれ、発展するが、神話的・魔術的な領域を捨て去ってしまっては、やはりうまく行かない。
マーク王というキャラクターは、ときには闇は闇のままに、謎は謎のままに、心の問題をすべてさらけ出して解剖することなく、受け入れることも必要なのだということを教えてくれる。

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コメント

はじめまして。TB&コメントありがとう
ございました。

みんさんの記事を読んで、ますますマーク王が
いい人であることを実感しました。
彼をもっと暴君として描いていれば、
トリスタンとイゾルデの関係ももうちょっと
マシに見えたんでしょうが。

投稿: えめきん | 2006.11.06 07:14

この「手を失った」マルケ王も、映画が独自に加えている設定だと思います。
わざわざ付け足しているということは、何か明確な意図があるがあるのでしょう。
一般的にはマルケ王の身体的特徴というと、「馬の耳」の持ち主ですが。

チュールの物語、初めて知りました。
勉強になります。
心理学的には、手や足などの出っ張った部分の喪失は、「○ニス」の喪失を意味するものでもあるそうです。

つまりトリスタンは、その子供は誰の子か悩む必要はなかったのですね(笑)。

投稿: ぴっぽ | 2006.11.06 18:35

>えめきんさん
コメント、トラバありがとうございます。
あの映画で一番かっこいいのはやっぱマーク王ですよねー。

>彼をもっと暴君として描いていれば、
>トリスタンとイゾルデの関係ももうちょっと
>マシに見えたんでしょうが。

ですねー。
相手によって相対的に見方はかわりますから。
でもそれって本質的にはやっぱりかわらず
「二人が周りがみえない迷惑カップル」なままなわけで…。
あんまりフォローになってない(^^;)

また遊びに来てください~。

>ぴっぽさん
いらっしゃいませー。

>この「手を失った」マルケ王も、映画が独自に加えている設定だと思います。
やっぱりそうですよね。
わたしも思いつく話がなかったので、もとネタと離れたとこから考えてみました。

>わざわざ付け足しているということは、何か明確な意図があるがあるのでしょう。
今回の映画に関しては、どこまで意図的なのか(意図的ならその割りに穴が開きすぎな感じ)びみょーな気もしてるんですけど、まあ作品は発表された時点で観客のモノになるので、そこから何をどう読み取るかは自由ですからね~~。制作者の意図とちがった読みをするのも一興だと思います。
文学やアートはトンデモ読みが一番おもしろいし(笑)

>一般的にはマルケ王の身体的特徴というと、「馬の耳」の持ち主ですが。
「馬の耳」ですか!
これは知りませんでした。ロバの耳なら例の「王様の耳は~」ですけど、馬の場合はなんか古事があるのでしょうか?

>心理学的には、手や足などの出っ張った部分の喪失は、「○ニス」の喪失を意味するものでもあるそうです。
わたしも心理学とかの本で読んだことありますが、ちょっと乱暴すぎるとおもうんですよ。
つうか女性が手足をなくした場合はどうすんじゃい、というツッコミが即座に浮かびます(笑)
心理学とか精神分析とかその成り立ちからしてマンニズム、男性中心主義なので、何かに当てはめて考えるときは、その辺をすこし割り引いて考える必要がありますね~~。

>つまりトリスタンは、その子供は誰の子か悩む必要はなかったのですね(笑)。
(爆)どわーー。
そうか~。マーク王とイゾルデの初夜シーンが違った目で見えてきました。
常々思いますがぴっぽさんとは笑いのツボが近いみたいです(笑)

投稿: みん | 2006.11.08 13:59

>馬の場合はなんか古事
Marke王の語源は
Marc Marck March(馬)であり、
トリスタン物語のひとつ、べルールでは、
王様の耳は「ロバの耳」ならぬ、「馬の耳」の挿話を扱ってます。

ちなみにご存知かもしれませんが、
トリスタン(Tristan)はDrustanus(ラテン語)
~ウェールズ語のDrostan、Drystan(騒乱、喧騒)
つまり大元は「悲しみの子」ではないんですね。


イゾルデ(Isolde)は Ousilla(ラテン語)で
~ウェールズ語でAdsiltaコーンウォール語ではIselt(見つめられる女人)
だそうです。

ちょっとだけトリビア(笑)

>ちょっと乱暴すぎるとおもうんですよ
ま、こじつけといえば、そうなんですけどね。
ワーグナー御大もマルケ王ED説を推奨しているみたいなので、ついそちらのほうに思考が(笑)

それと拙頁にリンク貼ってくださってありがとうございます。
ウチのブログにも遅ればせながらみんさんのこちらのブログにリンク貼らせて頂きました。

連続長文失礼しました。

投稿: ぴっぽ | 2006.11.08 17:55

>ぴっぽさん
レスありがとうございます。
なるほど。名前の語源が馬なんですね。

トリの名前についてのネタは、いずれやろうと思ってたんですが、資料が部屋のブラックホールに埋もれてて捜索中です…orz
>~ウェールズ語のDrostan、Drystan(騒乱、喧騒)
こっちだとみやび~なイメージからだいぶずれますね。竪琴引いても音痴そうなイメージ(^^;)
「Drystan」をついつい「ドリスタン」と読んで風邪薬を連想してしまいます。

ワグナーのマルク王はいい人ですね。
わたしはマロリーが根っこにあって、ついつい情けない卑怯者が浮かんでしまいます。おい!。
でも、マロリーであんまりにひどく書かれているので、かえって本当はいい人だったのではないかなぁと妄想が広がります。

リンクありがとうございます。
半分お笑い系みたいなページですが、これからもよろしくです(^^)

投稿: みん | 2006.11.09 17:59

みんさん、初めまして。
TB&コメントをありがとうございました。
いやぁ、深いですねぇ。素晴らしい。
私は、元の『アーサー王伝説』をちっとも知らないので。映画を見ただけの感想しか書けなかったので。マーク王に魅入られた私としては、みんさんの記事はとても興味深かったですよー。DVD化したら、もう1回見たい気がしてきましたー。

投稿: 隣の評論家 | 2006.11.12 11:23

>隣の評論家さん
おほめいただいてありがとうございます。(*^^*)
マーク王はアーサー王伝説の中でも毀誉褒貶の激しい登場人部で、いい人に書かれてる(ゴットフリート)場合と、哀れなほど最低になってる(マロリー)との落差がすごいです。途中から伝説が複数系統に分かれたらしいです。
その辺も書いていきたいです。(わたしもまだ勉強中ですが…)

DVDでたらわたしも欲しいですね〜。

投稿: みん | 2006.11.12 16:49

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